とりあえず生存報告。

おそすぎるあけましておめでとうございます。

本当は記事書いてたのです。
12月の終わりから1月上旬にかけて、人生観が揺らぐような出来事があり、そのことについて書こう書こうとして、書きかけては手が止まっています。
人生観が揺らいだとはいっても、外面的には何の事件もなかったです。
ただただ、ある人に言われた一言で、今までの私の人生や、今やっていることの意味を痛烈に考えさせるものだったというだけのことです。

ネットで自分を発信することの意味。

たとえば美味しいランチを食べて、その写真をアップするという行為は、「こんなおいしいお店を見つけたよー」と他人に知らせる意味もあるでしょうが、「私こんなにオシャレで、余裕があるのよ」とみる人に誇示する意味も多分に含まれているのではないか、と思うのです。
自分の勉強とか、エクササイズとかを発表するのも、毎日の努力の記録という意味もあるでしょうが、やはり他人に誇示する意味があるのではないか、という疑念がわいているのです。
「そんなことをして何になる?」「くだらない外面の見栄じゃないか」という疑念がわいてブログもアップできないし、ツイッターもほとんど投稿できないでいます。

そもそも自分とは何のためにここにいるのか。

そんな青臭いような疑問があたまを離れないです。
美しい絵を見ても、素晴らしい音楽を聴いても、それ自体には感動するけれど、自分がそれを享受していることの意味を考えてしまいます。
仕事をしていても、自分の仕事が何のためになっているのか、と考えてしまいます。
私の仕事など、なくても全然いいんじゃないか、いわゆる「ブルシット・ジョブ」じゃないかという思いがあたまをたびたびよぎるのです。

親ガチャという言葉が最近あるけれど。

最近「親ガチャ」という言葉があります。
親が貧しかったり、毒親だったりしたら、その後の一生が決まってしまう、という意味です。
もちろん「子供ガチャ」(子供に重い障害があったり、ひどい非行をおこなったり)というのもあるし、「生まれた年ガチャ」(1年の違いで就職先が売り手市場だったり、氷河期だったり)というのもあります。
そういう、運命のせいにはしたくないけれど、やはりそういうもので人間の一生は決まってしまうのかもしれない、とも思ってしまいます。

2022年の最初の投稿にしては、暗いものですが、どうしてそう考えているのか、何が起こったのか、できるだけ早く書き上げたいと思っています。

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